【2019年9月】翌日の午前中は、ギリシャのロードス島の歴史的な町、ロードスタウンの旧市街見学に充てました。
たまたま、この週末はツーリズムの日だとかで、主要な見どころが無料で入れるだけでなく、普段は非公開の所を公開する「オープン・ドア」という欧州連合(EU)が主導しているイベントの日に当たりました。
ロンドンでも一度だけ、このイベントを利用したことがあります。
これはラッキー。
まずは、観光案内所の人が一押しした「騎士団長の宮殿」へ。
無料で入れました。
ここは1309~1522年に聖ヨハネ騎士団がロードス島をはじめとするドデカネス諸島の主な島々を統治していたとき、騎士たちに選挙で選ばれた騎士団長が住み、公務を遂行した宮殿で、14世紀に建てられました。
聖ヨハネ騎士団は、欧州各国の貴族らの寄せ集めで、プロバンス、オーベルニュ、フランス、イタリア、アラゴン、イングランド、ドイツの7つの言語(tongue)の宿舎(inn)で成り立っていたそうです。
騎士団長は一生の仕事で、期間中に任務に就いた騎士団長は全部で19人、うち14人がフランス人だったとのこと。
騎士たちの公的文書は全て、ラテン語で書かれましたが、公用語はフランス語だったとか。
つまり、フランス系が牛耳っていた団体だったようです。
この期間、東西の海運、商業の経由地として発展。
イタリア、フランス、スペインの企業や銀行がここに拠点を置いたそうです。
騎士団長の宮殿は1522年にトルコに征服されて後は、牢獄として使われたとのこと。
1851年の地震でダメージを受けた上、1856年には火薬庫に雷が落ちて爆発し、大打撃を被りましたが、1912~1943年にロードス島を占領したイタリアによって、修復されました。
それで現在、広々とした階段を上った上の階の部屋には、イタリア人が、ロードス島の北にあるコス島から持ってきた古代ギリシャやローマ、ビザンチン時代のモザイクが床に敷かれています。
何という名前だったか失念しましたが、34歳で亡くなった若いイタリアの研究者で、モザイクの描写が上手だった人が集めたものです。
宮殿を出た後は、Ippodonという、緩やかな坂になっている騎士たちの通りを下りました。
それぞれの言語の宿舎が両側に並んでいる重厚なイメージの通りです。
どこも閉まっていて中は覗けないのですが、ただ、フランス語の宿舎は、何か展示会が開かれていたために、ちょっと覗くことができました。
特に驚くようなものはありませんでしたが、ガイドブックによると、このフランス語の宿舎が中でも一番、立派なのだそうです。
それから「オープン・ドア」の恩恵を受けて、この通り沿いにある「三位一体チャペル」にも入ることができました。
小さいカトリック教会で、案内板によると、1365~74年に建てられたと考えらているそうです。
もともとはイングランドの騎士たちのものだったのが、15世紀にフランス語の騎士たちの傘下に移ったようだとありました。
中のフレスコ画は15世紀後半から16世紀初めのものだとのこと。
ちなみに、この聖ヨハネ騎士団、1522年にロードス島を追われた後は、シチリア島に移り、シチリア王からマルタ島を賃貸して、マルタに定着したそうです。