【2015年4月】その翌日は、贅沢にもガイド付きの個人ツアーで、北キプロスへ日帰りしました。
結果的に割高感は否めませんが、少なくとも、小さいキプロスが二つに分かれている事情が少しわかりました。
話は16世紀のオスマントルコ支配に遡ります。
トルコは支配下のキプロスを大切にしなかったため、人々はとても貧しかったそうです。
何割かはイスラム教徒になったため、「トルコ系キプロス人」が生まれました。
オスマントルコ末期、トルコがロシアの侵入を恐れて英国と契約。
代償として、キプロスは英国領となりました。
その間、キプロス人はずっとギリシャとの統合を望んでいて、英国支配下中、二度の国民投票を実施。
どちらとも絶対多数がギリシャ帰属を望む結果となりましたが、英国はこれを無視。
代わりに1960年にキプロスを独立させ、英国軍を駐留させることを決めました。
その際の憲法が複雑で、少数派のイスラム教徒にも国会で拒否権を認めたため、国としてまとまれず混乱。
そんな中、「我々はそもそもギリシャと統合したかったのだ」という反乱分子がクーデターを起こし、大統領暗殺を謀りました。
大統領はロンドンに逃げて助かりましたが、混乱に乗じてトルコ軍が侵入し、キプロスを二分する境界線を引きました。
以後、トルコ軍が居座っているそうです。
以上は、この日のガイドのステリオスさんの説明です。
歴史というのは立場によって異なるものだ、と学生時代読まされた「歴史とは何か」(E.H.カー)で学びました。
違う見解も聞きたいものです。
ちなみに白地の旗は北キプロス・トルコ共和国、赤地はトルコの旗で、常に一緒に並んでいました。