スピナロンガ島へ

スピナロンガ島へ

【2025年6月】ギリシャのクレタ島東部のアギオス・ニコラオスから行くデスティネーションの一つがスピナロンガ島です。

ここは20世紀初めにハンセン病患者が隔離されていた島として有名です。

私はその昔「The Island」という小説(作者はVictoria Hislop)を読んだ覚えがあったのですが、その舞台がこのスピナロンガ島だったことは忘れていました。

ギリシャのクレタ島沖のスピナロンガ島への観光船から海に飛び込む人
途中に寄ったKolokitha Bay で海に飛び込む人

私たちは、この島へ行く観光船に乗りました。

6月のこの日には、一日2回運行していて、私たちが乗ったのは12時半出航の船です。

料金は一人€25(4300円ほど)で、ガイド付きです。

予約は要りませんでした。

最初の目的地は、Kolokitha Bay というところで、ここで30分の水泳タイム。

船の上から飛び込む形のアレです。

私たちは水が冷たいのを承知していましたから、まったくその気はなかったのですが、老若男女が飛び込んでいました。

ギリシャのクレタ島沖のスピナロンガ島を船から見る
船から見たスピナロンガ島

水は本当にきれいで、気持ちよさそう。

そしてスピナロンガ島へ。

この島の中に入るのに一人€20が必要でした。

そのせいか、中に入らず、海辺で泳いでいた若者たちも見かけました。

英語とドイツ語のガイド2人がそれぞれのグループを率います。

英語の方はグロリアという太っちょのおばちゃんで、アーチの下の日陰であらましを説明。

彼女の話のポイントは、ハンセン病患者1100人がこの島で暮らし、よくできたコミュニティになっていたこと。

ギリシャのクレタ島沖のスピナロンガ島内の遺跡
1100人のハンセン病患者が暮らしたスピナロンガ島の内陸部

病気持ちとは言え、普通の人々の暮らしがあり、数は忘れましたが、この期間中に3桁の数の結婚式があり、3桁の数の子供が生まれたそうです。

ただ、健康に生まれた子供たちは親から離され、アテネの施設に入れられたとのこと。

隔離が決まった当初は、クレタ島の病人だけでしたが、クレタが正式にギリシャの一部となった後は、ギリシャ全土の病人が来たという話でした。

ちなみに、クレタ島は19世紀末にオスマントルコから独立して自治国となりましたが、1913年にギリシャに併合されたのだそうです。

本土に帰ることが許された人の中には、本土での暮らしが辛くて、ここに舞い戻って来た人も

ギリシャのクレタ島沖のスピナロンガ島は、ヴェネツィア公国の要塞だった
いかにも要塞だったらしい風景

グロリアは、島が牢獄のような状況ではなかったことを強調したかったようです。

20世紀半ばになると、治療薬が登場し、隔離が終わったのだそうです。

ハンセン病のハンセンという名は、この病気の菌を発見したノルウェーの医師の名前なのですって。

ところで、この島はもっと昔、16世紀にはヴェネツィア公国の要塞でした。

その後、18世紀初めにトルコの傘下に入ります。

遺跡と化したギリシャのクレタ島沖のスピナロンガ島
ハンセン病患者の足跡は除かれた

ハンセン病患者の隔離が終わった後、考古学者がこの島に入りましたが、彼らの興味はそういった大昔の歴史にあったため、患者らの暮らしの軌跡は全部、取り除かれてしまったという話でした。

なので、私たちがその後、集合時間まで過ごした島は、完全に遺跡と化した乾いた景色ばかりでした。

病人たちの近代史の方が身近で面白いと思うのですが。

それでも、とても興味深いひと時でした。

夫もインスピレーションを掻き立てられたようです。