【2022年9月】クロアチアのドゥブロヴニクでの二日目には、ウォーキングツアーに参加しました。
参加費は一人130クーナ(2500円弱)。
女性のガイドさんで、歴史の話が主でしたが、なかなか上手で飽きませんでした。
そもそも、ドゥブロヴニクの始まりは、今ある旧市街の南半分だけで、しかも島だったそうです。
その名はラグーサ。
ドゥブロヴニクは長いこと、ラグーサ共和国として知られたそうです。
この数週間前にイタリアのラグーサを訪れたばかりだったので、ちょっとびっくり。
ドゥブロヴニク旧市街のプラッツァ大通りはもともと海だったそうです。
ここを埋め立てて、北部の土地と一緒になったのが12世紀。
旧市街を囲む城壁は、ヴェネチアからの攻撃を防ぐために14~15世紀に作られたそうです。
イタリアのラグーサと同様、ここも大地震に見舞われた(1667年)のですが、城壁は強固にできていたため、城壁とそのすぐそばの建物は助かったという話でした。
ラグーサ共和国の首長はレクターと呼ばれ、なんと、毎月選挙で選ばれたとか。
1か月では大きな変革は何もできない代わり、汚職も防げたとのこと。
このラグーサ共和国、軍を持たず、常に外交で乗り切ってきたそうです。
例えば、オスマントルコには巨額を支払ったうえ、スパイ活動をすることで、占領されることを防いだとか。
また、国民は黒と茶色の服しか着られなかったそうです。
これは、貧しく見せかけることで、敵の略奪を防ぐため。
実は非常に豊かな共和国で、特に海の交易で栄えたのだそうです。
ただ、新航路が開発され、港の重要性が減った後は、造船で生計を立てるようになりました。
その際、山のオークの木を使ったことから、「オークの森」を意味するドゥブロヴニクが町の名になったのだそうです。
という、ちょっとロマンチックで可愛らしい中世の歴史から下って1990年代の紛争の話へ。
セルビア軍は北の丘から攻撃したため、主に屋根が崩壊したそうです。
爆弾が落ちた屋根は修繕され、新しいオレンジ色、被害を免れた屋根は昔のままくすんだ色と、2種類の屋根が見られるとのこと。
セルビア軍の攻撃の跡をわざわざ残しているという話でした。
ガイドさん自身、今もセルビア人は大嫌い。
たまにセルビア人のツーリストが顧客として来ると、非常に気を使って緊張するとか。
ボスニアとモンテネグロとは近しい関係で、特に被害の大きかったボスニアには同情心を持っていると話していました。
紛争から30年たった今も、まだ歴史と化しておらず、今も続く生々しい現実の話のようでした。
今思いましたが、そういえば、ユーゴスラビア時代の話はほとんど出ませんでした。
どうしてかな。