【2024年4月】アルバニアでの二日目、さっそく、ティラナから南のベラトへ向けて出発です。
その前に、アルバニアのお金、レクを全く持っていなかったので、両替所の場所を聞いて、ホテルの外へ。
前日はホテルから一歩も出なかったので、これが私達にとって初ティラナです。
歩いてみたら、私達のホテルは、急速に発展したとみられる開発地区の一角にあることが判明。
こういう町には奇抜なデザインの新しい建物が多いもので、ここにもそうした橋がありました。
橋を渡ると、対岸にはもっと古い建物が色とりどりの化粧をして並んでいました。
こちらは、一般市民の生活の場のようでした。
両替は問題なく、€1≒100レクと覚えやすいレートでした。
私達のツアーはメンバーが12人と少数なので、ミニバスで移動です。
ベラトまでは、約100キロ。
道中、アルバニアの基礎知識を学びました。
イタリア人のツアーなので、全てイタリア語です。
殊勝な私の夫が、要約して訳してくれました。
アルバニアは、けっこう、イタリアの支配下にあった時期があったらしいです。
まずはヴェネツィア共和国で、これは国の北半分を占めていたようです。
その後、オスマン・トルコに長く支配された後、今度はファシズム時代のイタリアに支配されました。
そして、第二次大戦後には強力な共産主義国になったそうです。
隣のユーゴスラビアが独立路線を取ったのに対し、アルバニアはソ連寄り。
けれど、スターリンが死亡した後のフルシチョフ政権は甘すぎるとして、ソ連との関係を絶ち、中国に近づいた時期もあったそうです。
道中、大きな製鉄工場跡がありました。
一時は人手不足なほどに繁盛した工場でしたが、国を開いたとたんに崩れたという話でした。
ところで、アルバニア人は自らの国をアルバニアとは呼びません。
彼らの呼び方を聞いたのですが、新しい言葉をすんなり覚えられるはずもなく、調べたら、シュチパリアというそうですね。
アルバニアという名前は、よそから来た人が、たまたま最初に行き着いた村の名がアルバニアに近い名前だったことから、国外向けではアルバニアが国名となったという説明でした。
途中、錆びた井戸がたくさんある地域がありました。
これは油田だそうです。
ある時、ハンガリー人がこの辺りの水が油っぽいことに気づいて、油田を発見。
浅い油田で、戦時中には重宝したとのことですが、今はもう使われていないそうです。
さて、やっとトイレ休憩です。
ベラトまでのちょうど中間ぐらいにあるベルシュという所の湖のほとりで一休み。
人々が釣りに興じていたり、学校の遠足の児童たちが、古い船で湖を巡っていたりとのんびりした風景がみられました。
静かな湖で、リフレクションが本当にきれい。
すれ違ったお爺さん、言葉は分かりませんが、「きれいな所だろう?」と自慢していたようでした。