【2017年5月】チェコのモラヴィア地方の中心地、ブルノの景色の重要な一角を占めているのがシュピルベルク城です。
ブルノ滞在の最終日、まずこの城を訪れました。
ガイドブックには9時オープンとあったのですが、実際には10時でした。
以下、ここでもらったパンフレットで学んだことです。
この城は、13世紀後半に建てられ、ルクセンブルク伯爵がモラヴィア全体を統治する拠点として栄えましたが、15世紀以降は要塞としてのみ使われました。
1742年にはモラヴィア最強の耐爆建造物としての工事が完了、1200人ほどの兵士をはじめ、兵器や物資を保存できる要塞となりました。
その要塞を牢獄として使い始めたのは1784年のこと。
当時、ブルノはオーストリア帝国の傘下にあり、時の皇帝は、ヨーゼフ二世でした。
何しろ最強の要塞が牢獄となったので、帝国内でも最も頑丈な牢獄として名をはせたそうです。
ここには殺人犯をはじめ、窃盗、強盗など通常の囚人だけでなく、オーストリア帝国に歯向かう政治犯も入れられたとのこと。
その一人が18世紀末から19世紀半ばに生きたイタリア人の文学者シルヴィオ・ペッリコでした。
この人は急進的な立憲自由主義を掲げる革命的な秘密結社、カルボナリ党に参加したために捕えられ、死刑を宣告されますが、後に減刑されて9年間、このシュピルベルク城に幽閉されたそうです。
そして、その体験を「わが獄中記」という本にまとめて、反響を呼びました。
この本は、イタリアの小学校高学年の教材にもなっているのだそうです。
例えば、看守にも人間性があり、良い人悪い人がいたということ、足枷には、鎖が長くて動きがとれるものと短くて殆ど身動きできないものの二通りあったことなど、詳しく書かれているとのことです。
彼が入っていた牢獄を見にブルノを訪れるイタリア人が多いそうで、どうりで、町の中でよくイタリア語が聞こえていました。
19世紀半ばに、この牢獄はいったん廃止されましたが、その後、第一次大戦、第二次大戦の時に再度、牢獄として使われたとのこと。
1960年からはブルノ市博物館として公開されているそうです。
暗ーい牢獄跡を見学した後、別料金を払って城の塔に上りました。
前日上った旧市庁舎の塔からより、もっと先の広々とした景色が見渡せました。