【2016年8月】ワルシャワでの共産主義ツアーの続きです。市の中心から川向うのプラガという地区へ入りました。ここは労働者階級の貧しい人々が住むエリアだそうです。最近はアーティストらが住みはじめ、芸術的な落書き(壁画?)が描かれたり、新しいアパートや良いレストランが建ち始めたとのことですが、基本は危ない地域らしかったです。この一角にある元工場の共産主義博物館へ。ここでガイドのマリウシュが自分の生い立ちを話してくれました。彼のお爺さんは共産党員で、ある地区の農業主任だったそうです。反骨精神のあったお父さんは、父親の力を借りずに自力で英語を学び、一家は7~8年リビアで過ごしたとのこと。けれど、お爺さんの立場の関係で、ポーランドに戻らねばならなかったそうです。子供心に灰色の町が嫌で、リビアで豊富だったバナナやオレンジが食べられなくなったのが辛かったと話していました。
第二次大戦中、ポーランド人は英軍などに混じって戦い、そのまま英国などに居ついた人も多いそうです。1960年代にそういった人々との行き来が許されたため、ポーランドの人たちは西側の暮らしを知ることに。子供時代は西側製のおもちゃがほしくて仕方なかったと言っていました。
博物館には当時の人々の暮らしを再現した部屋や、共産党のプロパガンダを示す部屋がありました。ソ連とポーランドの友好を表現したポスターを指しながら、マリウシュは「これは真っ赤なうそ」と言います。例えば、ポーランド対ソ連のスポーツ行事のテレビ放送は細切れ。というのも、観客のブーイングをカットするのに余念がなかったからだそうです。そんな状況を変えたのは、1979年にポーランドを訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世。聖書を引用する形で、国民に政治を変えることを訴えたのだそうです。それを受けて「連帯」が力を伸ばし、最終的には選挙で平和裏に革命が実行されたのだと説明していました。そして、「ソ連はトルコ人を使って教皇暗殺を企てたが失敗した」と、一般には真相が明らかになっていない教皇暗殺未遂事件について、ソ連の仕業だったと言い切っていました。