【1996年9月】壮大な中国横断旅行、3週間目に入った日は、敦煌からバスで哈密へ向かいました。
運賃は64.8元(当時、1元=約13円)でした。
砂漠の中の、ちゃんと舗装された一本道を進むのですが、ものすごく揺れたり跳ねたりしながら、時速40キロぐらいで進みます。
その上、途中で壊れたミニバスをつなげて、それを引っ張るのです。
そして、その紐が何度もほどけて、その度に15分ぐらい停まります。
団体ツアーの人々は、脇を追い越していく日本のはとバスやエアポートリムジンのお古に乗っている様子。
佐川急便のトラックもよく見ましたが、これも佐川が中国に進出しているのではなく、お古のトラックを譲ったのだと思われました。
さらに、時にはベンツや良いRV車に乗った人達が、私達のおんぼろバスを追い越して行きました。
なぜ一般人のバスはこうも、おんぼろでなくてはならないのでしょうか。
昼の休憩に停まったのは、砂漠の中にレストランもどきが4~5軒あるだけの、名もない所。
女性二人が唐辛子を切る作業をしている傍らで、別の女性が洗濯板を使って何か洗っていました。
水はドラム缶のようなのから汲んでいます。
貴重なのでしょう。
結局、このバスの旅は10時間かかりました。
前半は寒く、後半は非常に暑く、ずっとトイレを我慢していたこともあって、本当につらい道のりでした。
景色が単調でつまらないこともマイナス点。
遠くに雲のように白いラインが見えた局面があり、しばらくして、それが雪を頂いた山脈だと分かりました。
その後、ひと眠りして目覚めても、辺りの様子は変わらず、雪山だけが少し近づいていました。
そして、バスは雪山を右に見て通り過ぎました。
車窓のイベントといったら、それぐらいで、あとはひたすら砂漠です。
「緑の大地」といいますが、それは嘘で、大地というのは、こういう厳しい砂漠のことをいうのだと思いました。
ようやく哈密に到着。
まずは翌日のバスのチケットを購入しました。
人々が何も悪びれず、堂々と割り込んでくるので参ります。
ここまで来ると、あちらこちらで、ウィグル語が漢字に併記されていて、人々の顔つきが少しバタ臭くなりました。
哈密は結構、大きい街。
ここの哈密賓館の168元の部屋に一泊しました。
例によってバスルームに難点のある小汚い部屋で、夕食を食べたホテル内のレストランは旧ソ連風の殺風景な所でしたが、働いている人の感じが良かったのが救いでした。
翌日はまたバスの旅。
バスに乗ったとたんにウィグルの世界に入った気がしました。
前に座った家族、ショートヘアの女の子は郷ひろみのような顔つきで、その子の祖母と思われる女性は、以前、トルコで会ったおばさんに似ています。
見送りに来ていた女性は岸恵子のようだったし、その息子も西洋人とのハーフのような顔。
女の子のお爺さんと思われる年配の男性に至っては、青い目をしていました。
長い道中、このウィグル族の一家がブドウをくれました。
彼らがしているように、皮ごとむしゃむしゃ食べてみたら、その味が豊かで驚きました。
この日の車窓は前日よりはドラマチックで、少し緑が生えた地面が赤い岩山に向かって伸び、さらに後方には紫色の高い山が控えています。
その景色が終わると、また元の不愛想な砂漠に戻りましたが、行先であるトルファンまで68キロとの標識が見えた辺りから再びすごい景色。
今度は西部劇風です。
山がそびえるだけでなく、道路の下方では地面が割れています。
やがて、これがべセクリク千仏洞の付近だと分かりました。
右手には、何度も写真で見た火焔山が見えてきました。
時間帯のせいか、それほど赤くありませんでしたが、ひだひだの多い山肌がよく見えました。
乗ってから9時間、ようやくトルファンに到着しました。