【2018年9月】ウクライナのキエフにある最古の大聖堂、聖ソフィア大聖堂の外の広場には、ダイナミックな騎馬像が建っています。
この人はボフダン・フメリニツキーというコサックの英雄で、17世紀にウクライナをポーランドから独立させた人だとのこと。
ウクライナは1340年あたりにポーランドとリトアニアに征服されたのですが、その支配はずっと緩やかだったそうです。
ところが、17世紀に入って、ポーランドの皇帝が強硬にカトリックを押し付けてきたので、反発の機運が盛り上がり、反乱に至ったとのこと。
けれど、独り立ちするには力が弱すぎたため、「残念なことに、ロシアに支援を求めたのです」とガイドのミロスラーヴァが言っていました。
この像は1888年に建てられたものですが、当初の予定では、騎馬像が乗っている台にも様々な彫刻が予定されていたところ、資金不足に陥って今の形になったという話でした。
フメリニツキーが振り回しているこん棒は、ポーランドに向けられているべきなのに、何かの間違いで、ロシアに向かっているとのこと。
ミロスラーヴァは「今となってはアイロニーですね」と言いました。
そのまま幅広い道路を歩いて、正面の聖ミカエル大聖堂へ。
ここは7年前にも訪れたところです。
ここに入る手前にある像の一部は、キリル文字を考案したマケドニア人の兄弟であるのは知っていましたが、その隣の女性、オリガについては初めて知りました。
この人は10世紀半ばにキエフ公国を統治した人だそうです。
暗殺された彼女の夫の時代には、いつでも必要に応じて徴税できる制度でしたが、これが民衆の反発を招いたと判断し、税制改革を実施した賢い為政者だったとのことです。
次に目を引いたのは、聖ミカエル大聖堂の外壁です。
前回訪れた時にはなかった、たくさん顔写真が掲げられていました。
これは2014年のウクライナ騒乱以来、亡くなった人々です。
2016年までは各月に何人が亡くなったかが記されていました。
ミロスラーヴァによると、今も決着はしておらず、時々死者も出ますが、めっきり減っているという話でした。
騒乱の後に起こったロシアのクリミア侵攻については、国内でも見方はいろいろあり、ロシアのものとなっても構わないと考える人もいるそうです。
クリミア半島の維持はお金ばかりかかり、特に見返りがないというのがその考え方の根底にあるとのこと。
ミロスラーヴァ自身としては、「クリミアはもともとの住民であるタタール人のものであるべき。フルシチョフ時代にウクライナ領となってから、スターリンに強制移住されられたタタール人の帰還が認められましたが、わずかしか戻っていない状況です」と話していました。
ここからさらに歩くと、前回にも通った児童公園へ。
この辺りの再開発が議題に上った時、反対する声があがり、暫定的にアーティストがデザインした彫刻が置かれ、そのまま公園として定着しているのだそうです。
数か月前にオープンしたばかりという階段で、この丘から降りられるようになっていました。
キエフは大き目の三つの丘といくつかの小粒の丘から成っているとのことで、ここから街を眺めました。
その先には、キエフ最初の教会跡の敷石が残っている部分があり、さらに、「博物館の敷地なのに、民間人が勝手に古代の教会をイメージして建てられた教会」(ミロスラーヴァ)というのがありました。
そして聖アンドレイ教会へ。
サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館を建てたイタリア人の建築家、ラストレッリの設計で1754年に建てられた教会です。
ミロスラーヴァによると、この教会はしょっちゅう改修工事をしていて中に入れないとのこと。
この日も工事中で、私達は、周りにめぐらされたプラットフォームをぐるっと歩いて終わりました。