70歳の運転手の語り

マルタでの最終日、拠点としていたイムディーナの城門の外でタクシーに乗ろうと探したが、一台もいない。

困ったなと思っていると、太っちょのオヤジが寄ってきて「どこへ行くのか」と聞く。

「モスタの教会を見て、空港へ」と説明すると、「じゃあ、50ユーロだ」とのたまう。

そりゃ、ぼったくりだろう、と思い「それなら、結構」と言って、バス停へ足を向けたが、内心、非常に困っていた。

日曜で、バスの本数が少ないのはわかっていたし、この日の予定を急変更しなくてはならないからだ。

時刻表を解読しようとしていたその時、タクシーの姿が。

あわてて止める。

さっきの太っちょが寄ってきたが、それより早く行きたいところを説明したら、運転手は20ユーロと言い、太っちょの介入をきっぱり拒絶した。

良い人だ。

乗ってみて気づいたが、昨日、港へ送ってもらったのと同じ運転手だった。

モスタの教会を見終わり、「空港に荷物を預けて、次はマルサシュロックに行くんだが。

」と運転手に言うと、「それなら直接、マルサシュロックへ言って、私の知り合いのレストランに荷物を置けばよい」と言ってくれた。

それはありがたい。

お言葉に甘えることにした。

道中、立派な病院や大学の近所を通りすぎると、寡黙だった運転手が「マルタでは大学も病院も無料だ」と得意げに話し始めた。

驚いたことに、大学は無料であるばかりでなく、学生一人ひとりが月々、120ユーロのおこずかいを国からもらうのだそうだ。

「私の孫はここでの教育の後、専門医学を究めるために、英国のケンブリッジに留学している。

9000ポンドもかかったよ」と、これも自慢げ。

「けれど、何を隠そう、私は文盲なんだよ」。

流暢な英語はすべて、耳で聞き取って学んだのだそうだ。

運転手(名前を聞かなかったのが非常に残念)は、1943年、第二次大戦中、防空壕の中で生まれたそうだ。

交通の要点であるマルタは戦時中、空爆が絶えず、ロンドン空襲の比ではなかったという。

「毎日、4時間は空襲だったと聞いた」。

母親には何と、17人の子供がいたが、多くが戦争で失われたそうだ。

戦後の生活は苦しく、学校に行く余裕はまったくなく、5歳になったときから働き始めたという。

ヤギを数頭引き連れて各家を回り、要望に応じて乳をしぼって金銭を得ていた。

「ところが、あるときヤギの病気が広がり、政府が乳搾りを禁じたんだよ。

それで私は失業さ」。

その後、1964から10年間は米国のデトロイトで働いていたそうだ。

というのも、64年、マルタが初めて独立した際、それまで14年間同地を統治していた英国がすべての産業を引き上げてしまったことから、マルタは全く収入の手立てのない極貧国だった。

このため、政府が援助して海外への出稼ぎを促進したのだそうだ。

マルタは英国領になる前はフランス領。

アラブやトルコの傘下だったこともあり、自立したことは一度もなかったという。

ちなみに、その影響で、マルタ語はスペイン語、イタリア語、アラブ語、フランス語が少しずつ入り混じっている。

けれど「独自の言葉を持てて幸運だと思う」と運転手は言っていた。

彼は「貧しかったころ、今思えば、人々の心は豊かだった。

自分の食べるものがパンひとかけらでも、本当に空腹な人がいたら、パンを半分にして分け与えるのが当たり前だった。

生活が豊かになった今は持つことが当然となってしまい、常にもっと、もっとと要求し続ける」と嘆く。

嘆きながらも、国が豊かになったことに誇りを持っている。

マルタの失業率は6%台と欧州連合(EU)平均を大きく下回っている。

「働きたくなくて、失業保険で暮らしている連中がいるだけさ」と運転手。

現在、マルタの主な産業はツーリズムのほか、造船などエンジニアリング系が強いらしい。

ルフトハンザ航空が機体修理部門を置いており、1000人ほどを雇用。

「マルタには技術があるからね」と胸を張る。

政府も教育に注力しているのだそうだ。

もっと話を聞きたかったが、そうこうするうちにマルサシュロックに到着。

日曜市のため、道路が封鎖されていて、ちょっと離れたところに車を停めた運転手は、さっさと私の荷物を担いで、70歳とは思えない足取りで歩き出す。

私は小走りに、追いつくのがやっと。

目指すレストランに、彼の知り合い本人がいなかった様子だが、出てきた人と交渉し、ちゃっかり荷物を置いてもらうこととなった。

これだけのサービスも含め、タクシー代45ユーロと、最初の太っちょの言い値より安かったので、チップを含めて50ユーロ手渡した。

運転手のおじいさん、いつまでも元気で!