人口: 約20.5万人

市外局番: 040

ナンバープレート: TS

面積: 84平方km

中東欧との国境沿いに位置する小さな港町、トリエステ

イタリアにありながら、他の有名なイタリアの都市とはかなり異なる雰囲気を漂わせたちょっと変わった街です。

様々な勢力の統治下に置かれた歴史を持つトリエステですが、中でもオーストリア・ハンガリー帝国などを牛耳ったハプスブルク家の影響が色濃く残っていると言われています。

立派で美しく、気品さえ感じられる建物が並ぶ街並みを見ると、まるでウィーンの街を歩いているのではないかと錯覚するほどです。

トリエステの観光名所

美しいアドリア海に面した「穴場」として近年密かに人気を集めるトリエステは、歴史的な建物が並ぶ見どころの多い街。

多くの観光スポットが街の中心部に集まっているので、楽に見て周れます。

また、イタリアを代表するコーヒーの「illy」の本拠地でもあり、「コーヒーの街」としても有名なトリエステ。

多くの文化人たちに愛されてきた老舗のカフェを巡るのも、この街の観光の楽しみの一つです。

イタリア統一広場

トリエステの街の中心に位置するイタリア統一広場、正式名『ウニタ・ディタリア広場』は海に面した広場としては欧州最大。

大きなイベントはすべてこの広場で行われ、市庁舎や観光案内所などもここにあるので、この町を訪れる人が必ず一度は立ち寄るところです。

広場を取り巻く建物はすべて、威厳のあるバロック、ネオ・クラシック様式で、前述したオーストリア文化の影響を見て取ることができます。

ミラマーレ城

トリエステの中心から少し離れているものの、有名な観光スポットとして人気の高いミラマーレ城

海岸沿いに佇む美しい白い外壁を持つこの城は、「悲劇の城」とも呼ばれほど、悲しい物語があります。

城が完成してからわずか4年ほどで、城主が皇帝になるためメキシコに渡り、その地で銃殺されてしまったのです。

城から見える美しいアドリア海の景色、素晴らしい庭園や豪華絢爛な内装を、城主がたった4年しか楽しむことができなかったと思うと切ないですね。

サン・ジュスト聖堂

丘の上に建つサン・ジュスト聖堂は、14世紀、当時2つあったロマネスク様式の教会を一つに合体したものだと言われています。

お隣には同名の城塞もあり、どちらも石造りの素朴な外見をしています。

派手さはないものの、建物の中にあるモザイクの装飾は非常に綿密で美しく、一見の価値がありますよ。

デッリ・スペッキ

観光客のほとんどが訪れる「イタリア統一広場」に面して、1839年に創業された老舗カフェデッリ・スペッキ』があります。

内装は当時の雰囲気をそのまま残した、きわめてクラシックなもの。

また、テラス席からは美しいアドリア海が見え、素敵な環境の中でコーヒーを楽しむことができます。

お値段は少し高めですが、コーヒー、ケーキ共々値段に見合った美味しいものが出てくるので大変おすすめの場所です。

トリエステの気候

平野に位置するトリエステは、イタリアの中では珍しく地中海気候ではなく、温暖湿潤気候に属すことで知られています。

これは、1年を通し比較的温暖な気候でありながら、まとまった降水も多く、年間約1000mlほどの降雨が見られるということです。

また、名物の気象現象『ボーラ』と呼ばれる冷たい突風が吹くことも稀ではありません。

特に冬の間は、人が立っていられなくなるほどの強風が吹くそうで、倒れないよう掴まるためのロープや鎖が街のあちらこちらに張られています。

強風による災害が起こることもありますので、寒い時期に訪れる際は十分に注意が必要です。

トリエステの歴史

イタリアに属しながら、その場所はイタリア半島ではなくヨーロッパ大陸にある風変わりな港町、トリエステ。

その歴史をひも解いてみると、ビザンチン帝国、東ゴート王国、フランク王国、ヴェネツィア共和国、オーストリア帝国と、数々の国家によって支配されてきたことが分かります。

中でもオーストリアによる支配は、20世紀初頭までの500年を超える長期に渡り、この間に現在の都市の基盤が形成されていきました。

その後も、ナポレオン軍による征服、ナチスドイツの侵略、ユーゴスラビアによる統治などを繰り返していきます。

イタリアの国家統一が1861年であるのに対し、トリエステが正式にその一部となったのは、第二次世界大戦後の1954年と大幅に遅れました。

現在は、その複雑な歴史から生まれた他では見れない一味違った文化が、密かに観光客の人気を呼んでいます。