【2013年7月】ヤルタ会談が開かれたリヴァディア宮殿はもともと、ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ二世の夏の離宮として1911年に建てられました。
ロシア革命が起こったのが1917年ですから、皇帝一家がここで過ごした日々はわずかだったのですね。
一階はヤルタ会談にまつわる事柄でいっぱいでしたが、二階に行くと、宮殿本来の姿が残っています。
説明を聞き、写真を見たりすると、この一家の最期が分かっているだけに、何だかしんみり。
四人の娘たちは仲がよく、いつも一緒にいたため、お母さんは四人に用があるときには、頭文字を取って「オットマ!」と呼びかけていたんだそうです。
5人目のアレクセイは病弱でしたが、母親が怪僧ラスプーチンに電話しただけで、病状が改善したといいます。
このためラスプーチンは皇帝一家の寵愛を受けましたが国民の憎悪の対象でした。
ラスプーチンの殺害に加担したユスポフという皇帝の親戚は、自分の列車を持つほどに裕福だったけれど、ラスプーチン殺害の功績を買われて革命軍に見逃され、パリに逃れて長生きしたそうです。
アレクセイと一緒に写真に写っていました。
100年ほど前の歴史がとても身近に感じられたひとときでした。