珍しく、夫の投稿です:
【2021年1月】新型コロナの流行のせいで、もう近々、1年近く在宅勤務を続ける中、毎朝早く、近所のロンドンのイーリング地区を散歩しています。
この日はいつもとルートを変えて、あまり知らないエリアを歩いてみました。
イーリング・ブロードウェイから左側の歩道を歩いていた時、地面に見慣れない記念碑を見つけました。
驚いたことに、この記念碑にはジム・マーシャルの名前が刻まれていました。
興味が湧いてオンラインで調べたところ、マーシャルはこの地点に彼の2つ目の店を構えていたことが分かりました。
マーシャルの最初の店がイーリングにあったことは知っていたし、こことは別の場所であることも分かっていました。
私達が住むイーリングは、単に「ご近所」というには大きく、人口が40万ほどもあり、これがイタリアだったら中規模の都市だと言ってもいいほどです。
この記念碑と、小さな店の写真を撮りました。
店は今では床屋になっています。
私は過去に長い事、楽器関連の仕事をしていて、何年も前、まだイタリアに住んでいた頃、イングランドにあるジム・マーシャルの邸宅に招待されたことがあるのです。
彼の昔の店の近所に住んでいるだなんて、何と素敵な偶然でしょう。
知らない方もいるかと思うので、ジム・マーシャルについて紹介します:
労働者階級から花形スターに上り詰めたマーシャルは、シンデレラ・ストーリーの典型ともいえますが、これに加え、彼は子供のころ、骨結核を患っていました。
このため骨が非常に弱く、ちょっと転んだり、何かに当たったりしただけで、簡単に折れたといいます。
学童期には、文字通り身体中、「くるぶしから脇の下まで」ギプスにくるまれて過ごしたそうで、正式な教育が受けられなかったそうです。
13歳の時に、ようやく病気が治癒しギプス無しの生活を送ることができるようになりましたが、筋肉が弱っていたので、脚を強くするためにタップダンスを始めました。
そうしたところ、マーシャルはリズム感がとても良いことが分かったのに加え、歌も上手だということが判明。
これが買われて、16人編成のビッグバンドのリードシンガーとして雇われました。
彼は歌うことも楽しんだのですが、自然なリズム感の良さのため、ドラムに惹かれて行きます。
それで、バンドのドラマーが第二次大戦で入隊して去ってしまった後、マーシャルがドラマーとなり、人気を集めました。
彼は自分で演奏するだけでなく、教えることにも力を入れました。
ジミー・ヘンドリックスのバンドで演奏したミッチ・ミッチェルや、リトル・リチャードやジェフ・ベックと共演したミッキー・ウォーラーも彼の生徒だったのだそうです。
マーシャルは生徒たちにドラムを販売することもしました。
1960年代初め、マーシャルはロンドン郊外に店を開店。
当時の競合他店が芽生え始めたロックを愛好する若者たちを忌み嫌っていたのに対し、マーシャルは彼らを受け入れました。
そんなこともあって、ザ・フーのドラマー、キース・ムーンは土曜日だけ、この店で働いていたそうです。
マーシャルの持ち前の社交性も手伝って、店は頭角を表し始めていたロック・バンドのたまり場に。
そして、ピート・タウンゼントといったギタリストが、ドラムだけでなく、ギターやストリング、ばちやアンプも店に置いてくれと頼んだといいます。
この願いを叶えただけでなく、マーシャルは、ピート・タウンゼントら若いミュージシャンらがギター・アンプからどんな音を聞きたいのか、詳しく聞き取りしました。
ロックギタリストらが欲しているのがどんな音かをハッキリ理解したマーシャルは、3人のチームを形成して、彼らの願いを叶えるために動き始めます。
最初の5つの試作品を却下した後、プロトタイプNo.6ができました。
これこそマーシャルの頭に中にあった音でした。
こうして、伝説のマーシャルの音が生まれたのです。
マーシャルは、話をよく聞き、理解することでロックギタリストの欲求に応えただけでなく、彼らの期待を超えるアンプを生み出したのでした。